『1200年前の京都新聞』2
1200年前の6月15日、太陰暦では弘仁8(817)5月21日である。この日に起きた2つの出来事を紹介してみたい。
①長野県と山口県西部では、飢饉が発生したため役所から食料などが支給されている。当時の都の貴族たちは、この悲惨な状況が拡大していくことをまだ予測してなかったかもしれない。しかし、今日から2週間のあいだに、状況は一変していくのであった。
②参議・宮内卿・河内国守という役職を兼任していた藤原緒嗣は、6日後にせまっていた藤原帯子の「国忌」を今後しないことを政府へ提案した。嵯峨天皇は、その提案を許可した。藤原緒嗣は、なぜ帯子の国忌廃止を急に提案したのであろうか。そこに、何か重要な歴史が隠れていると思われる。ぜひ皆さんでその隠された歴史を想像してみて下さい!
【以下は詳細な説明】
国忌とは、天皇と天皇に関係する父母や皇后などの命日に、寺院で追善供養する法会のことである。国忌の日は、役所は休みとなり、歌舞や音曲は禁止され、違反者は杖罪80という重い処罰が課された。現代風に言えば、国民の祝日に天皇家のため、東寺・西寺・崇福寺・興福寺などの1ヶ寺では読経され、人々は色々なことを自粛しているような感じである。
国忌は、持統天皇の時に始まり、どんどん数が増えていき、桓武天皇の頃には16にもなっていた。桓武天皇は、延暦10年(791)3月に中国の例に基づいて7つに限定した。その後、国忌の追加と廃止は必要に応じて行われたため、9もしくは10で推移した。しかし、清和天皇の天安2年(858)12月以降、中国の例に倣って国忌の追加と廃止を同時に行うようになり、9で固定化された。ただし、38天智・49光仁・50桓武・54仁明・58光孝の5天皇の国忌は維持され、実際には天皇1と后妃3の範囲で追加と廃止が行われていった。
藤原緒嗣が帯子の国忌廃止を申請する前、国忌は9であった。そして、次に国忌が設定されるのは、53淳和天皇がすでに延暦7年(788)5月に亡くなっていた母である藤原旅子のために行った、弘仁14年(823)5月であった。これらを見る限り、予定されていた帯子の国忌を、わずか6日前に廃止しなければならない重大な理由は、なさそうである。それなのに、藤原緒嗣は、なぜ帯子の国忌廃止を急に提案したのであろうか。そこに、何か重要な歴史が隠れているように思える。
藤原帯子とは、皇太子であった安殿親王(後の平城天皇)の妃となったが、安殿親王が即位する前に子供もなく病没する。帯子が死亡した延暦13年(794)5月は、長岡京から平安京へ都が移されている直前であった。帯子は、新しい都である平安京に移ることなく、長岡京の木蓮子院で亡くなった。ある意味で、ついてない女性であったのかもしれない。
しかし、安殿親王は、即位した後の大同元年(806)6月に、帯子を皇后として、その後も他の妃を皇后にしなかった。これが、政治的な配慮なのか、それとも、安殿親王と帯子との絆を反映したものなのか、不明である。5月27日が帯子の国忌になったのは、この時であろう。従って、帯子は、前年に二十三回忌と10回目の国忌を済ませ、6日後に予定されていた今年度の国忌は11回目に相当していた。帯子の国忌が廃止された要因の一つとし、前年に法要としての一区切りがついていたことが関係していたのかもしれない。
【参考サイト】
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