『1300年前の奈良新聞』4
1300年前の6月20日、太陰暦では養老元年(717)5月26日である。この日に起きた出来事を紹介してみたい。
従4位下の大伴宿祢男人が、長門国(山口県の西部)の長官に任命された。この人物は、壬申の乱で功績があった大伴馬来田の子であったとも言われている。そして、業務上の横領罪で罰せられた後も、以下の様な経歴をたどりながら役人として働き続けていた。当時の罪を犯した役人の人生や横領罪の状況を探る上で興味深い。
24年前の持統天皇7年(693)4月頃、内蔵尞の允(従7位上に相当する係長みたいな役職)として働いていた。その時、中務省の下級役人である巨勢邑治などを巻き込みながら皇室の宝物を盗んだ事が発覚し、解任されて2階級の降格となった。しかし、その後の10年間で従5位下まで昇進し、大宝3年(703)6月から慶雲3年(706)7月頃は大和国(奈良県)の長官になっていた。
その頃に従5位上に昇進し、和銅元年(708)3月には衛門府の長官となっている。さらに、和銅6年(713)4月に2階級昇進して正5位上となり、霊亀元年(715)正月には従4位下となっている。そして、養老元年(717)5月に長門国の長官に任命された後、どの様な人生を送ったのか、史料がなく不明である。恐らく、しばらくして死亡したのであろう。
大伴男人の横領に加担した巨勢邑治も処罰された後も、三河国や播磨国の長官、遣唐使、右大弁などの職務を歴任し、最終的には正3位中納言という高い官位と官職を得ている。
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