『1200年前の京都新聞』3
1200年前の6月21日、太陰暦では弘仁8(817)5月27日である。本日は夏至である。この日に起きた出来事を紹介してみたい。
長野女王と出雲家刀自女は、天皇の住まいもある平安宮で悲惨な殺人事件を起こし、遺体を損壊して遺棄したため、伊豆国(静岡県の東部)へ島流しになっている。その当時の刑法によると、この2人の女性は、斬首刑となり殺されるはずであった。しかし、何らかの理由で罪が減刑され流罪となった。
この2人の女性は、平安宮の北東にあった内教坊という所で働いていた下級の女官であり、同じ建物で暮らしていた。その後、長野女王の知人である船延福女という女性が訪ねてきて、長野女王の所に身を寄せて生活することになった。ある夜、長野女王は、出雲家刀自女に協力してもらい、寝ている船延福女の首を絞めて殺し、顔の皮をはいで平安宮の外に捨てたのである。
ここでよく分からないのは、長野女王が船延福女を殺した動機である。史料には、動機の部分として「長野見其少許衣物」と書かれている。長野女王は、船延福女が持っていた僅かな衣服や物品が欲しかったのか、それとも、船延福女が僅かな衣服や物品しか持っていなかったことが腹立たしかったのか、1200年前の2人の女性の間に、いったい何があったのであろうか。
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